身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古...

身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第1夜

身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第1夜

「今日は幸せになれるよう、一所懸命に歌いますから!そして、来年は、また一所懸命働きましょう」。
客のみんなに会長と呼ばれて慕われる、小枝さんの乾杯の音頭を聞いたとたん目頭が熱くなったのは、きっと僕だけじゃないはずだ。
忘年会後の行きつけだった目黒のカラオケスタジオがなくなって、五反田のBOXでいちばん広い部屋を貸し切った僕ら牛太郎の客たちにとって、彼は店主の城(じょう)さんと同じくらいのレジェンドだ。
 
その名前を初めて見かけたのは、水道橋博士さんのブログだった。勇気を決して入った常連だらけの古典酒場で、旧知のように優しく話しかけてくれ、そのままスナックの梯子に連れて行ってくれたハンチングの紳士。僕はその人に会いたくて、初めて武蔵小山の関所、「牛太郎」の暖簾を潜った。

身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第1夜

店の真ん中に鎮座する見事なコの字カウンター、その広さは中に渋谷のんべえ横丁の店が1軒丸ごと入ってしまいそうだ。広いカウンターの中で、センターと、向かって左側の冷蔵庫の間を飄々と往来する長身の男性が現代の店主、城さんこと新井城介さんだ。

何を頼もうか、視線を四方に泳がせていたら、ハンチングの男性が話しかけてくれた。小枝さんだ、思わず胸が弾んだ。
「若いんだから、とんちゃん頼むといいよ、名物だから。俺はもうトシだから、コレ、冷やしトマトの冷え過ぎてないの」、皺が刻まれた笑顔が優しい。

初めて行った頃には、まだ焼き台前にお母さん、真ん中の鍋まわりにも店の名物であるとんちゃん番のシゲさんがいた。歴史が刻まれた壁や天井、セピア色にスモークされたメニューの紙、創業時に業者たちから贈られた祝いの額など、昨今にリメイクされた居酒屋のレプリカでは決して再現できない風格が店を包んでいる。
 
しかし、決して牛太郎は厳めしい店ではない。ただ、現在は1日のほとんどをワンオペで取り仕切っている城さんのペースを守るために、オーダーは聞かれるまでキチンと待とう。近年、少しずつ開店時間が早くなったのも、一度にオーダーが集中すると対応できないからだ。

本来の開店時刻前に、そっと裏口から入って酒を待つ常連たち。そのオーダーはだいたい決まっているから、城さんは自分のリズムで客の前に酒と料理を並べて行く…。待ちに待った暖簾が掛かり、開店と同時に席が埋め尽くされても、新しい客だけのオーダーを取ればいい。
 
ところが心ないメディアが「暖簾が入っていても、常連たちは裏の入口からそっと入る」などと、面白おかしく報道する。すると、一見の客たちが通を気取って、裏口から入って来たりするのだ。ひとこと言おう、少なくとも10年早い。古典酒場には、先達への敬意を欠いた輩は訪れるべきではない、それは暗黙の了解である。
 

身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第1夜

だからと言って、無闇に緊張する必要などない。この広い東京で、牛太郎ほど心優しい店はいくつも存在しない。ある日の夕方のことだ、一見さんと思われる若いカップルがカウンターに座った。名物のとんちゃんが目前に渡されると、おもむろに女性がスマホで撮影し始めた。後ろから射す夕陽の中、ゴールデンアワーに浮かび上がるとんちゃんの姿は、誰が見ても「映える」。彼女がSNSに投稿するのは当然のことだろう。その時、カウンターの角越しの紳士が苦言を呈した。
 
「どうもね、そういうことをするのは、このお店では楽しくないね」。
男性は気まずそうに、黙礼している。しかし、彼女が毅然と言った。
「私はコレが楽しいんです、だから撮ります」。
しばらくして、苦虫顔の紳士は牛太郎を後にした。僕は、心の中で歓声を上げていた。
その時、笑顔の城さんがカップルに話しかけた。
 
「ごめんなさいね。せっかく来店してくださったのに、下らないいちゃもんを付ける人がいて…。あの方はああいう方なんです、気にしないで」、手にはサービスのスパゲティサラダが用意されている。
つまり、牛太郎とはそういう酒場だ。申し訳ないくらい安過ぎる価格設定も、ほかの酒場なら週1回のところを、週3回通えるようにという城さんの好意だ。
 

身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第1夜

常連はもちろん大切にするが、ちゃんと一見さんにも同じように接する。だから、牛太郎ではいつも、7割の常連と3割の新しい客たちが笑顔でコの字カウンターを囲んでいる。それは、きっといつまでも色褪せない古典酒場の理想的な姿に違いない。
 
最近は古典酒場好きの女性たちが増え、牛太郎はその頂点の1つとしてたくさんの女性ファンが訪れる。みんな城さんから注文を聞かれるまで大人しく座り、飲み終わったら食器をカウンターの上に片付け、ダスターできれいにして帰って行く。
 
常連たちはみんな牛太郎が大好きで、いつまでも牛太郎に通いたいから、自分にできる範囲の努力をする。殺伐とした競争に晒される飲食業界の中で、老舗の古典酒場がみんなに愛され、たくさんのフォロワーを生み続ける理由が、城さんの優しい笑顔を見ていると、なんとなく理解できるような気がする。
 
暖簾を潜る時、とんでもない決意が必要な古典酒場は、その懐に飛び込んでしまえば限りなく優しく、いつか常連になりたいと思う場所ばかりだ。だから、勇気を出して新しい世界へ踏み出そう。もちろん、最上級の敬意と自尊心だけは決して忘れないように。まずは牛太郎から、パラダイスの入口を覗いてみよう。

身にも懐にも優し過ぎる城南のパラダイス「牛太郎」。 今宵、入りづらい古典酒場へ!第1夜